科学少年だった。


子供の頃、科学が人を幸せにすると本気で思っていた時期がある。
で、科学者になりたくて理科の実験とかを自宅でやって
よく親父に怒られた。
豆電球に100Vを流して吹っ飛ばしたり、変圧器を複数つなげて目に見える超電圧を作り出したり(いま考えると小学生のくせに恐ろしい事をしていたものだ)
よく死ななかったもんだ。
実は近所のおっちゃんと、自作で小型ヘリが作れないかという相談までしていた。
扇風機では無理だけど、もっと強力なモーターがあれば物体を浮かすぐらい出来るんじゃないかと。
中学で引越しをしなければ、本気でやっていたかもしれない。
当時は大須(名古屋の電気街)をよく物色していたものだ。
あそこにはジャンクパーツがアキハバラのように並んでいて、やろうと思えばロケットぐらい作れそうなぐらい
電子部品が揃っていた。


でも自動車が普及して、パソコンが普及して、素晴らしい世界が広がる・・・のかと思ったら
それがさっぱりで
世界は今日も貧困と富裕が別れ、病原菌に悩み、死を恐れている。

結局、何も変わっていないではないか。
科学が人を幸せにするなんて、どっかのカルトみたいな思想は中学生を過ぎたあたりで吹き飛んでしまい
法道徳こそが人を幸せにするんじゃないかと高校からのめりこんでいったわけだが

分かったのは法律が試行される頃には、すでに物事は手遅れになっているという事実ばかりだ。
そして人は法律の穴をかいくぐって、わざわざ不幸を量産する。
狡猾な物は法律の解釈すら捻じ曲げて合法化してしまう。

ばかばかしくなった私は、科学も法律も中途半端で
ただ日々を生きる退廃主義者になった。
物を作るために人は、多くを犠牲にする。
食べ物を食べる為に、多くの生命を無駄死にさせる。

何もせずにただ、人を愛して生きて死ぬ事は出来ないのだろうか?
人は衣食住をこえて何を望むのか?

服があって食い物があって屋根があって、それ以上に必要なものとは何だ?



私はいま平和だし幸福だ。

服がある。食う物もある。屋根もある。
人の交流は少ないが、正直そんなものに興味があまりない。
文章を書くのが好きなので、ボーっとするよりはいいかと書いている。
それを面白がって返事をしてくれる人がいて、私は嬉しく思う。
返事をしてくれる人に、ありがとうと気持ちをこめてコメントする。
小さな幸福かもしれないが、大きな欲望は身を滅ぼす。

これでいいんだと、日々、自分を静かに見守る。